top of page

【展評】井崎聖子展

 

井崎聖子は緊急事態宣言を受けて、急遽全ての作品をこの色に統一したという。見えているのに留めることのできない光、それを実現する大気、若しくはそこに育んでいく植物を連想させる作品である。

 

波や風、溶岩のような自然現象に、我々は生き物のような印象を持つことが多々ある。すると無機物とは、死とは何かを考えることがある。死もまた、土に返っていく変容をみることができる。

 

人間が作ったプラスティックですら、いずれは分解される。古代の石碑金属塔も雨風に晒され、いつかは消尽する。生きることと死ぬことを乗り越えて、宇宙すらも消滅することを考えるのは、人間だけである。

 

井崎の作品を見ながら、こういったことを考えたのではない。井崎の作品に囲まれることによって、そう感じたのだ。かつて大乗寺の副住職が、円山派の絵は背中で感じられるので障壁画の意義はここにあると話したことを思い出す。

 

井崎の作品は、恣意的に描かれていない。綿密な計算が施されている。それが、レイアウトに陥ることは決してない。井崎の作品は写真やWEBでみると暖かかったり、柔軟であったり、軽やかな印象を与える。

 

しかし実際には非常に硬質で、強固で、堅牢である。余白はなく、白すら複数使われ、複数の「際」が織り込まれている。それは山口長男の作品の後期に表れる、描線と面の区別がつかない姿を想起させる。

 

だからといって井崎の作品の良さに変化は訪れない。我々を温かく見守ってくれる自然現象は、時には猛威を振るい、突如として人間をしに至り絞めるほどの暴力と化す場合がある。全ての事象とは、両面を備えるのだ。

 

我々は総てを独占することはできない。それでもほんのわずかの一部を所有することによって、その全体を把握することができる。井崎の作品もまた、一枚が完結していても無限連鎖し、留まることはない。

 

井崎の作品を連続して見ると、一枚の存在意義を確認することができる。それは画廊内の作品群だけで足りない。しかし、全ての作品を並べれば良い訳ではない。ここにないものを想像すること。そこには作品だけではなく、事象も含まれるのであろう。

 

宮田徹也(みやた・てつや)1970年生まれ。高校留年三回、中退、和光大学卒、2002年、横浜国立大学大学院修士課程修了。現在、嵯峨美術大学客員教授、日芸美術学部非常勤講師。図書新聞、週刊新聞新かながわなどに寄稿。

2020.5  

bottom of page